気持ちのいい街、横浜
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魅力がいっぱい、晴れた日に歩いてほしい
横浜には、銀座や日本橋のように歴史的物語があり、歩いてみると一種の誇りが伝わってくる。ペリー来航から始まった発展の歴史は、まだ160年余だが、10代からお年寄りまで、老若男女が楽しめる奥深い美しい街だ。
ぜひ、本町通り周辺の歴史的建造物、多くの外国人商人が住んだ山手旧居留地、「みなとみらい」の建築デザイン、横浜の夜景、多くの博物館や美術館を観てあるいて、関内駅西側に集まる老舗や、高級ホテルのディナー、中華街などで食を満喫し、元町ブランドや「みなとみらい」で買い物をしてほしい。
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全てはペリー来航から始まった
1854年、1度目の来航から半年後、ペリーは再び浦賀へ来航した。「交易のための開港」の返事を聞くためであったが、江戸湾を勝手に測量する、大砲を数十発ぶっ放す、など半ば脅しのような状態で、仕方なく幕府は開港を決めたと言われている。
その後、日米修好通商条約が締結し開港の場所として選ばれたのが、当時、80軒ほどの漁師小屋が建ち並ぶ寒村、横浜村だった。
国際貿易港として開港
1859年に開港すると、日本で一儲けを企む外国人商人とその通訳または使用人である中国人が次々と来日し、住む場所として、山下町(現在の山下公園南側あたり)に居留地が作られた。また日本国内にも、海外との貿易で一旗あげたいと、全国から商人が横浜へ移って来たという。
下の絵は、急速に発展した横浜本町通り界隈の、にぎわいの様子を描いている。
当時の主要輸入商品は、綿糸・織物、砂糖、輸出商品は生糸、茶、などであった。特に生糸は最重要品目であり、1872年に日本で初めての鉄道が新橋(現在の汐留)ー横浜(現在の桜木町駅)間で開通すると、生糸の輸送量は格段に上がり、日本各地の農村で作られた生糸は横浜港から大量に輸出され、日本の産業を支えた。
終戦後から現在
1923年の関東大震災で、横浜は壊滅的な被害にあう。その後、復興事業により生糸検査所、ホテルニューグランド、神奈川県庁本庁舎(キングの塔)、横浜税関(クイーンの塔)など今の横浜を代表する建築物が造られた。
1945年に終戦を迎えると、横浜港の90%と関内地区は連合国軍に接収されてしまう。が、1952年から徐々に接収が解除されると、ようやく横浜の復興が始まり、外国貿易も回復し始める。
この頃から、主な輸入商品は石油、金属、鉄鉱石、石炭が増加、輸出は鉄鋼、車両、機械類などがメインとなり、横浜は工業港としての色が強くなった。1980年代には「みなとみらい21」計画がスタートし、現在の横浜を象徴する景色ができていく。現在も様々な開発が、新高島駅あたりで着々と進んでおり、注目していきたい。
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