外国との交渉の窓口だった 大宰府
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今も発掘調査が進む大宰府跡
大宰府政庁は、外国との交渉の窓口として7世紀後半に大和朝廷が設置した役所のこと。天智天皇や藤原鎌足などが奈良で活躍しているころだ。
街は平城京と似せた作りで、政庁から伸びる朱雀大路の両側には碁盤の目のように地割された都市が広がっていたそうだ。その都市部も含め、「大宰府」と呼ばれていたという。
平安末期、平清盛が大宰大弐(大宰府の責任者)になると政治的中心地は博多へ移され、大宰府は徐々にその役割を終えた。
神様になった菅原道真
845年京都、学者の家に生まれた菅原道真は、幼少期から文才にたけ神童と呼ばれていた。若干26才で最高国家試験「文章得業生(もんじょうとくごうしょう)」(官僚になる為の試験)に合格すると、驚異的な出世を重ねていく。
55才で右大臣(政界のNo.2)に任命されると、周囲からの妬み嫉みは凄まじく、時の左大臣 藤原時平から無実の罪を着せられ筑前国(ちくぜんのくに)大宰府に左遷されてしまう。閑職に追いやられた道真は失意のまま2年で亡くなり、現在の太宰府天満宮がある場所に埋葬された。
没後、京都では左遷に関わった人物が次々と病死する、清涼殿に雷が落ちるなど、異変が立て続けに起こる。「道真の祟りでは」と恐れた朝廷は、道真の無実を証明し、天神様として祀ることで天変地異(道真の祟り)を鎮めようとした。菅原道真が神様となり、墓所が太宰府天満宮となったのはそのためである。
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