商港として繁栄した倉敷
今八
お土産はジーンズと備前焼
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この辺りは海だった
観光地として人気のある倉敷だが、この辺りは、400〜500年前まで島がポツポツと点在する海だった。「吉備の穴海」と呼ばれていたが、室町時代から江戸時代にかけて行われた干拓事業により、少しづつ陸地になっていったという。
埋め立てたばかりの土地は塩分を含み、米が育ちづらい土壌のため、塩に強い綿が、玉島、児島、倉敷周辺で多く栽培された。その為この辺りは繊維産業が盛んになったのである。
江戸時代は、瀬戸内海屈指の商港だった
江戸時代、幕府の直轄地「天領」であった倉敷は、瀬戸内海屈指の商港として大いに繁栄していた。倉敷川沿いには、米や加工された綿製品などを保管しておく蔵や、立派な商家がいくつも建てられ、現在の美観地区の町並みの基礎が形成された。
明治時代、繊維産業がさらに発展しジーンズ生産へ
時代は飛んで明治15年、児島に下村紡績所(現在は廃業)、明治21年に倉敷紡績所(現クラボウ)が設立されると、倉敷周辺の繊維産業はさらなる発展を見せる。大正初期には足袋の生産が日本一になり、昭和初期にスタートした学生服の生産は、昭和30年代に全国シェア90%を占めた。繊維産業、再びの黄金期となった。
1970年、昭和45年頃からはジーンズの生産が開始され、児島産の高品質なジーンズは人気を博している。
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地図範囲について
この地図には、倉敷美観地区、鶴形山公園、大原美術館、本町通りが含まれています。