織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が欲しがった大坂
スポンサーリンク
顕如(けんにょ)が作った難攻不落の城郭
現在の大坂城がある場所には、戦国時代初期から1580年まで、石山本願寺というお寺があった。
石山本願寺は一向宗(後の浄土真宗)の総本山で、戦国時代すでに一大勢力を誇っていた。そのトップが顕如(けんにょ)という僧である。
顕如は、織田信長と11年にも渡る長い戦いを続ける中で、石山本願寺を難攻不落の城郭へと進化させていった。
寺なのに城郭というのも変だが、石山本願寺は丘の上にあり、北と東は川に守られ「守りやすく攻めにくい地」にあった。
また、一般的な「寺と門前町」という作りではなく、寺内町であった。寺内町とはつまり、寺を中心に衆徒が住む町が広がっており、それを堀や土居、塀などで囲い防御力を高めてある要塞都市のことだ。
織田信長との長い戦い(石山合戦)の末、石山本願寺の味方をする者は減っていき、最後はじっくりとした兵糧攻めにあい、顕如は城を明け渡す。が、その直後、石山本願寺は焼亡した。
黄金色に輝く大坂城
石山本願寺焼亡の2年後、信長は本能寺の変で死んでしまう。
目をつけたのは豊臣秀吉で、跡地に大坂城を築いた。黄金色に輝く天守をはじめ、城内の装飾も金銀に光るほど派手であったと言われている。
豊臣家より立派な城を!徳川家が再築した大坂城
秀吉亡き後、大坂冬の陣、夏の陣によって豊臣家は滅ぼされる。そして戦によりボロボロになった大坂城を徳川家が再築するのだが、豊臣家の威光を払拭するため、そして徳川家の権力、権威を示すために、より大きく、より豪華な城を作ったと言われている。
今日私たちが見ているのは、徳川家が築城した大坂城だ。天守の中は、大坂城にまつわる様々な展示がされており、じっくり見ると半日ほどかかりそう。
大阪旅行と本
村上海賊の娘:石山本願寺と織田家の争いに巻き込まれた毛利家と村上水軍の話。2014年本屋大賞。和田竜[著]
火花:漫才師の話。芥川龍之介賞受賞。又吉 直樹[著]
地図のダウンロードはこちら
個人利用はもちろん商用利用も可能ですが、再配布・販売を禁止します、詳細は利用規約をご確認ください。
こちらもどうぞ
地図範囲について