徳川軍を2度撃退した名城上田城をあるく

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知恵を振り絞って戦国時代を生き抜いた真田家
真田昌幸とその子、信之、信繁(幸村)は、戦国時代を巧みに駆け抜けた知恵者のようなイメージがあるが、どうだろうか。真田昌幸は武田の家臣であったが、武田が織田に滅ぼされたため、織田の配下となった。ただ、その僅か3ヶ月後本能寺の変が起きると、甲斐・信濃は混乱する。甲斐・信濃の旧武田領を統治していた織田家臣も殺され、旧武田領は持ち主がいない状態となったのだ。
この土地を巡り、徳川家康、上杉景勝、北条氏直の争いが始まった。
が、真田も素早く密かに裏で動いていた。
まず織田から隠れていた旧武田家臣と、周囲の地侍、豪族を取り込み、その総大将となった。そのまま沼田城を奪回、上野方面の守備も固めた。本能寺の変からおよそ2〜3週間ほどの間に起きた出来事だ。
本能寺の変からおよそ一ヶ月、上杉が長野県北部に進軍してきたため、真田はまず上杉に臣従している。が、その半月後には北条に降った。その二ヶ月半後には徳川方となり、北条を裏切る。家康の命により対上杉用として、上田城の築城を開始したのはこの頃だ。
しばらくして、「沼田城も手に入らないし、色々うまくいかないなぁ」と思った北条から徳川へ和睦要請が入る。徳川方も同盟国としてそれを受け入れるのだが、その際家康は、昌幸が自身で手に入れた沼田領を北条へ譲渡するように命じる。全く納得のできない昌幸は、両者と敵対していた上杉に再び降るのであった。
どうしたらそうなるのかわからないが、上杉は徳川に代わり、上田城の速やかな完成を目指し、諸々援助してくれている。わずか2年半で上田城は完成した。
完成前後に徳川方の大軍勢が攻めてきたが、真田は難なく返り討ちにしている。
武田時代、真田の所領は小県郡(ちいさがた)と西上野(にしこうずけ)、現在の上田市真田町および、群馬県みなかみ町、沼田市あたりだった。
所領を得るために、知略を巡らせ、根回しをし、人を調略する。感情ではなく損得。必死な生き様が見て取れる。

上田城跡(城門)写真提供:長野県観光機構

上田城跡公園の桜(写真提供:長野県観光機構)

池波正太郎真田太平記念館(写真提供:長野県観光機構)

北国街道町並み(写真提供:長野県観光機構)
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